シャトー・モンテレーナ|House of Otium

シャトー・モンテレーナ

シャトー・モンテレーナ

オーナーのジム・バレットは、駆逐艦や潜水艦に士官として乗船して勤務したのち、弁護士を経て、ワイナリーを立ち上げた異色の経歴の持ち主です。 バレットは、海軍を除隊後、ロサンゼルスに自身の法律事務所を立ち上げましたが、弁護士として大成功するほど、不毛な訴訟に明け暮れる法律家としての人生に情熱が持てなくなり、自然を相手にする仕事をしたいと思うようになりました。そんな中、興味を持ったのがワイン造りです。 1年半かけて北カリフォルニアで畑を探したところ、不動産屋が案内してくれたのが没落して荒れ放題のシャトー・モンテレーナでした。 弁護士時代、自家用機を操縦し、ソノマにあるサンタローザ空港へ行き来していた時、眼下にこのワイナリーの畑を見ており、上空を飛行するたびに素晴らしい畑だと感じていたため、愛機がこのワイナリーを引き合わせてくれたとバレットは感動したそうです。 土地は60haあり40haが畑だったため、ブドウを新しく植え替え、ラフィットやマルゴーに匹敵するワインを造ろう、醸造技師も雇わねばとバレットの心が躍ります。 ジム・バレットはワインに情熱を見つけ、畑も見つけました。次は醸造技師です。 醸造技師のマイク・ガーギッジは、クロアチアに生まれました。ワイン造りに興味があったガーギッジはザグレブ大学の醸造学部に入学しました。 学生生活を送る中、半年のカリフォルニアでの研究休暇から戻った醸造学部の教授が、授業で学生にカリフォルニアでの農業を紹介した時の事… 「水がないと砂漠だけれど、水があると楽園だ」「どの農家もトラクターを持っていて、5年毎に買い替える」と聞いて、ガーギッジの夢が膨らみ、「必ずカリフォルニアへ行って、自分のワイナリーを持つぞ」と心に決めたと言います。 その後カリフォルニアに渡り、様々なワイナリーで経験を積んだガーギッジ。そんな中、シャトー・モンテレーナから話が来たのです。ジムがついに見つけた醸造技師でした。 ガーギッジは「私は、高品質のカベルネ・ソーヴィニヨンとシャルドネを造った経験があります」と言い、バレットは「私は、世界レベルのカベルネ・ソーヴィニヨンを造りたい」と述べ、2人の思惑が一致。そこで2人のワイン造りが始まりました。 そして1976年5月24日あの事件が起こります。そう、かの有名な「パリスの審判」です。貴族階級の裕福なイギリス人、スティーヴン・スパリュアがアメリカ建国200年を記念し、フランスワインと、当時全く無名だったカリフォルニアワインをブラインドテイスティングするという試飲会がパリのインターコンチネンタル・ホテルで開催されました。出品されたフランスワインはボルドーの5大シャトーやブルゴーニュのグランクリュを含んだ名だたるワイン達でしたが、結果はカリフォルニアワインが赤白共に1位という誰もが信じがたい事態となり全世界に衝撃が走りました。この試飲会により当時フランスワインが市場を独占していた状態に風穴を開け、カリフォルニアワインが世界に認められるきっかけとなりました。白ワイン部門でシャトー・モンテレーナ シャルドネ1973年がブルゴーニュの名門を抑えて1位に、赤ワインでは同じカリフォルニアのスタグス・リープが僅差で1位となったのです。 ガーギッジは、パリスの審判で1位になったワインの醸造技師として、一夜でカリフォルニアの英雄になり、色んなワイナリーから、「ウチで醸造責任者になってほしい」とのオファーが来ましたが、全部断りました。 クロアチアからカリフォルニアに来て、他人のためにワインを造りたくない、自分のワイナリーで自分のためにワインを造りたいとの強烈な想いがあり、モンテレーナとの契約満了後自分のワイナリーを立ち上げ、1976年にガーギッジ・ヒルスを立ち上げ、残念ながらシャトー・モンテレーナを去ります。 ガーギッジが抜けた後は、ジム・バレット自らワインを造り、ワイナリー立ち上げの頃に考えていた「カベルネ・ソーヴィニヨンによる世界レベルの赤ワイン」も造りました。 ガーギッジの一番弟子であり、ジムの息子であるボー・バレットは、2013年にジムが他界した後も父の遺志を受け継ぎワインを造っています。 伝説のパリテイスティングから現在まで貫かれるクラシカルなモンテレーナスタイルの栄光は今後もずっと語り継がれるでしょう。
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